寺院紹介
名 称 瑠璃光山 薬師院 玉井寺
(るりこうざん やくしいん ぎょくせいじ)
宗 教 真言宗智山派(しんごんしゅう ちさんは)
総本山 智積院 京都府京都市東山七条
本 尊 阿弥陀如来(あみだにょらい)
縁 起
延暦13年(794年)平安京遷都の折り、桓武天皇は新都への加護を願い、藤原小黒丸左大弁紀古佐美を通じ、
南都興福寺の僧賢憬上人に四神相応の地、探求を命じられました。そこで上人は東国に下り、この地に滞在の折り、
にわかに眼病を患い、大いに苦しまれたそうです。上人は勅命を果たせぬことをおそれ、一宇を建て薬師如来を安置して病気平癒を祈る。
ある夜、上人の夢枕に春日大社の大神が現れ、「汝か居りしところより西方の地に井を穿て、されば井中より両個の寶玉出でんその清水にて汝の眼を洗へされば眼病は忽ちに癒えん」と告げられ、村人の協力を得て井戸を掘ったところ、
綺麗な清水が湧出し、上人がその清水で眼を洗ったところ、忽ちに眼病が癒されたとされています。
この時、井戸の中より美しく輝く宝玉2箇が出土され、その1箇は寺宝として現在も安置されています。もう1箇は東北方の地に埋め、その上に祠を建立されました。これが現在の玉井神社にあたります。
また、上人は春日の神恩に報い奉らんと春日大神を祀るため、井戸の南方に祠を建立されました。これが現在の春日社にあたります。
井戸から宝玉が出土されたことを以て、「玉の井」と名が付けられ、寺の名を玉井寺と名付けたとされています。
玉の井
玉の井は当山縁起の最初にして本堂の西方の地にあり、延暦13年正月賢憬上人が桓武天皇の勅命により、宇内形勝の地を求めて当地を訪れた際に眼病を患い、南都春日大神のお告げにて掘ったとされる井戸です。
掘ったその時に、井中より両個の宝玉を得て「玉の井」と名付けられました。
この井戸は霊泉とされ、井戸の水は霊水とされていました。医者もさじを投げる程の難病の人もこの井戸水を服用すれば、
不思議と難病も癒えると云われ、その霊験あらたかなること遠近に知られる井戸であったと伝えられています。
しかしながら現在は、飲用水として利用することは出来ません。
熊谷市指定文化財
- ・玉井四郎の墓(右写真)
- 不整形な石を五輪塔形に積み重ねた墓で、昔から「玉井四郎の墓」とよばれています。 玉井四郎氏とは、「成田氏系図」によると成田助高の子・助実が玉井四郎と名乗り、玉井氏の祖となっています。 「保元物語」の白河夜討ちの条に源頼朝に従い、玉井四郎氏が軍功をたてたとあり、「平家物語」では玉井助景が源頼朝に仕えて一ノ谷の合戦で平通盛を討ち取ったとあります。
- ・十王供養塔
- 高さ二尺余りの家の形をした供養塔があります。正面に寛文11年(1671)権大僧都法印玄心とあり、両側面に十王の顔、背面に天秤が彫られています。
十王は十三仏信仰の基となる道教の思想で、生前の罪を冥界で裁く裁判官といわれ、その中でも三十五日忌の裁判を司る閻魔王が良く知られています。
霊場
- ・幡羅郡新四国八十八箇所霊場 六十二番札所
- 弘法大師様を慕い、四国霊場を身近に巡礼するため、江戸時代に始まり昭和初期まで盛んに行われていたとされています。
- ・熊谷七福神霊場 布袋尊
- 昭和十七年、当時の熊谷市長・斉藤茂八氏が市民の健脚体位向上を計るため、熊谷市内の社寺に七福神霊場の設置を発願、同年7月22日に初開帳されたものです。
各霊場は次の7箇所となります。
- 恵比寿天…上ノ村神社
- 大黒天…高木神社
- 布袋尊…玉井寺
- 福禄寿…赤城久伊豆神社
- 毘沙門天…石上寺
- 弁財天…賢勝院
- 寿老人…東竹院
伽藍及び建造物
- 本堂…明治年間初期に本堂再建、平成2年増改築
- 鐘楼堂…明治33年再建
- 春日社…延宝4年(1676)建立。老朽化に伴い、平成20年再建
- 多宝塔…元文5年(1750)建立
- 千部供養塔…明和2年(1765)建立
- 六地蔵尊…明和9年(1772)建立
- 石井法城顕彰碑…大正11年建立
- 弘法大師千百年遠忌塔…昭和9年建立
- 水子地蔵尊銅像…昭和62年建立
- 弘法大師銅像…平成10年建立
- 十三仏永代供養塔 阿字の郷…平成11年建立
- 屋根付き大香炉…平成12年篤信者の寄進により建立
- 十三層塔…平成18年篤信者の寄進により建立